ducc

燭台は凶器になる。他人任せの人生など死んだも同然だ。

Posted on

 

 

どんな物事にも、行き詰まりがくる。 

どうして、こんな日々を過ごさなくてはいけないのだろう。 

 

誰かのせいにしたくなる。 

自分ではどうのしようもない問題にぶつかると私たちは、それが自分の手から離れたものだと勝手に思い込み、不安に駆られる。理性を保てなくなり、他人に高圧をかけ攻撃的に、そして、自暴自棄に陥る。   

そんな生活を送る中で私たちは以下のことを悟らなければならない

 

 他人任せの道には真理はない。 

 

映画「The Passion of the Christ 」でヘロデ王が言った。 

「お前がナザレのイエスか。豫にも奇蹟を見せてくれるか。」 

 

まだ律法に縛られていた時代、人は生活や信仰を守ることの厳しさに直面していた。 

無論、人間個々人はそんなに強い存在ではない。ましてや、古い時代を生きる者たちは、貧しい者は今よりも途方にくれるくらい貧しかった。 

生活を守るのに必死で、信仰など二の次になる者が多数を占めていたに違いない。

だから、律法に背いた行動をとるものが後を絶たなかった。  

 

律法に忠実な生活をおくることは、貧しき者には残酷なほどに厳しかったのだ。

 

国は混乱し、乱れた人生を歩む者で溢れかえっていた。 

いや、生きていた人などほんの一人握りだったに違いない。 

 

彼らは救世主を待ち望んでいた。 

この退廃的な世界を救済してくれる者が現れることを期待していた。 

 

驚くほどに完全に他人事のように、世界を見ていたのだった。  

 

他人に任せっきりの人生など死んだも同然である。

 

この時代から人は進歩した。 

そう信じたい。 

 

なぜなら、私たちはキリストによって救われ、神の御言葉が聖書に刻まれていることを知っているからだ。 

 

今の時代を生きる私たちは旧約時代に比べると次元を高めることが容易にできるのである。  

 

誰かが言ってくれる。 

誰かがやってくれる。 

代わりなどいくらでもいる。 

 

そんな人生に光などありはしない。 

 

燭台は凶器になる。  

頼りにしていた燭台が倒れたらどうなるだろうか。 

なす術をもっていなければ、たちまちにその場所は火に包まれる。

 

明かりは自分で灯すものであると悟らなければならない。  

 

どんな艱難が待ち受けていようと、逃げてはならない。 

サタンの誘惑に負けてはならない。

 

自分が今いる場所で何が出来るのか。 

 

それを極めるのに必要なものは、全て神様が教え、用意してくれる。 祝福さえ、既に準備をしていてくれるのかもしれない。  

 

一切の甘えを捨てて、子どもになったように、聖書を読み、学び、この場所にふさわしい人間になりなさい。 

 

自分に言い聞かせるように、祈り、神様と繋がる生活をおくりなさい。  

 

そのようにして、物づくりの喜びを知り、私たちは他人に愛を伝道する境地に達する。 


コメントを残す