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自らの死、兄弟姉妹の死を想うことで見えてくること。

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人の死を想うのは、なんて不謹慎なのだと思う人がいると思います。

しかし、まだ生きている人が死んだのを考えることは罪ではありません。

私たちは死を恐れるからこそ、愛を知るからです。それによって、残された時間に対して、何が出来るのかを真剣に考え、この世に働くようになるのです。

大切な人の死の可能性を直視することで、私たちは優しい風を吹かす存在になれます。  

死を想うことは一種の痛みを伴うものです。その痛みを知ることで、目の前に現れる問題から逃げず、戦い抜くことができるようになります。  

また、その痛みを知ることで、世で発生する痛みのほとんどに免疫をもつようになり、取るに足らない痛みを見分けることができるようになっていきます。

死から学べることは沢山あるのです。

厳格な態度で死に臨むことは義となるのにきっと役に立つでしょう。

死からは誰も逃れられません。しかし、神様の国に入る上では、それでよいのです。  

世に未練など持たないことです。  

権力や金、銀、情に流された人間関係に執着しないことです。
そうすれば、自ずと今いるその場所で出来ることが一つ残らず見えてくるはずです。

今日の明け方、兄弟姉妹が死へ臨む覚悟をもち、それぞれの分野で主管する存在となり、神様の栄光を示す働きをするようにとお祈りさせていただきました。

涙が出ました。
実によい朝の光でした。

ローマの信徒への手紙 5章 1-8引用ここから---

このように、わたしたちは、信仰によって義とされたのだから、わたしたちの主イエス・キリストにより、神に対して平和を得ている。

わたしたちは、さらに彼により、いま立っているこの恵みに信仰によって導き入れられ、そして、神の栄光にあずかる希望をもって喜んでいる。

それだけではなく、艱難をも喜んでいる。なぜなら、艱難は忍耐を生み出し、忍耐は錬達を生み出し、錬達は希望を生み出すことを、知っているからである。

そして、希望は失望に終ることはない。

なぜなら、わたしたちに賜わっている聖霊によって、神の愛がわたしたちの心に注がれているからである。

わたしたちがまだ弱かったころ、キリストは、時いたって、不信心な者たちのために死んで下さったのである。
正しい人のために死ぬ者は、ほとんどいないであろう。善人のためには、進んで死ぬ者もあるいはいるであろう。
しかし、まだ罪人(つみびと)であった時、わたしたちのためにキリストが死んで下さったことによって、神はわたしたちに対する愛を示されたのである。

引用ここまで---

申命記22章より引用ここから---

あなたの兄弟の牛 、または羊の迷っているのを見て 、それを見捨てておいてはならない 。必ずそれを兄弟のところへ連れて帰らなければならない 。

もしその兄弟が近くの者でなく 、知らない人であるならば 、それを自分の家にひいてきて 、あなたのところにおき 、その兄弟が尋ねてきた時に 、それを彼に返さなければならない 。

あなたの兄弟のろばの場合も 、そうしなければならない 。着物の場合も 、そうしなければならない 。またすべてあなたの兄弟の失った物を見つけた場合も そうしなければならない 。それを見捨てておくことはできない 。

あなたの兄弟のろばまたは牛が道に倒れているのを見て 、見捨てておいてはならない 。必ずそれを助け起さなければならない 。

引用ここまで---

私はこの世界のために役に立てる存在となりたいといつも祈り求めています。
兄弟姉妹が真の力強さを発揮する手助けをしたいと望んでいます。

兄弟姉妹が安らかに眠ることが出来るよう、死をも恐れない覚悟をもち、自分を捨てて愛に生き、神様の御業にかなった働きをするようにお祈りいたします。

いつも全知全能で遍在なさる神様、世界中の兄弟姉妹たちへたくさんの聖霊が降り注ぎ、主の御業にかなった素晴らしい仕事を世にもたらすことが出来るよう、私たちを導き、力をお授け下さいますように。アーメン。


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